はじめに
積読とはいいものである。 (ここでいう積読とは電子書籍ではなく、物理的に積んである本のことであると、あらかじめ断っておく。)
数年前に購入した本は、その当時に「読みたい」と思って手に取ったものの、何らかの理由で読む機会がそがれ、本棚や部屋に横積みにされている他の本たちに紛れてしまっている。
しかし、ふとした拍子に手に取ってみると、意外にもはまって読み込んでしまうことがある。
そして何より、当時の自分よりも今の自分のほうが、その本の内容にしっくりきていると感じるとき、まるで「今読むべきタイミングだった」と巡り合わせのようなものを感じることがあるのが、不思議である。
ここに紹介する『化学の授業をはじめます。』は、著者ボニー・ガルマスのデビュー作にしてベストセラー作品であり、Apple TV+のドラマ『レッスン in ケミストリー』の原作でもある。

あらすじ
あらすじはこうである。
1960年代のアメリカ。 主人公エリザベス・ゾットは、男性優位の科学界で研究職に就く女性化学者である。 しかし、彼女の優れた才能や理性的な思考は、周囲の男性たちから疎まれ、さまざまな偏見や差別にさらされる。
ある出来事をきっかけに研究職を離れたエリザベスは、料理番組の司会に抜擢される。
彼女はその番組を「家庭の化学講座」として再定義し、料理を通して女性たちに知識と自立の大切さを伝えていく。
社会の理不尽や、制度に組み込まれた差別と戦いながらも、自分の信念を貫くエリザベスの姿が描かれる、痛快かつ感動的な物語である。
表層の皮肉と、さらに深いテーマ
今の時代と比べると、女性に対する差別ははるかにひどく、「あなたのためになるから」という理由で女性の自己決定権を奪うような、強いパターナリズムが当然のように働いていた時代である。
その中で、主人公エリザベスはその時代の差別に迎合することなく、颯爽と自己主張していく。
結果として、彼女は多くの非難や反感を買うことになる。
この非難や反感は、現代においてはそぐわないものに思えるが、読み進めていくと「この状況、実は今もあまり変わっていないのではないか」と胸が痛くなる場面も多い。 この構図は、現代社会への皮肉にもなっている。
ただし、それはあくまで表層的なテーマにすぎない。
もっと深い部分には、社会通念や慣例、宗教、社会構造などが複雑に絡み合い、人間が自由であるための権利を奪い、差別を助長しやすくする社会システムが、すでに構築されているというテーマが存在している。
そして、パートナーであるキャルヴィンとのやりとりには、これらのテーマが自然に内包されている。
キャルヴィンはうなずいた。 「わたしはひとつ学んだの、キャルヴィン。人は複雑な問題に単純な解決を求める。目に見えないもの、手でさわれないもの、説明のつかないもの、変えられないものを信じるほうが、その逆よりもずっと楽なのよ」ため息をつく。「つまり、自分を信じるよりもね」腹部に力をこめる。 ふたりは黙って横たわったまま、それぞれにつらい過去を思い返した。
エリザベス・ゾットの逆襲に胸がすく
とはいえ、こうした小難しいテーマはひとまず脇に置いておきたい。
この小説の最大の魅力は、なんといっても、虐げられ、辛い思いをしてきたゾットが、釘を刺したバットでムカつくオヤジどもをぶん殴っていくところである(もちろん、釘バットで殴るのは比喩である)。
そのくらいの勢いで、前半の苦しい状況から、物語後半では一気に脱却していく。
どれほど酷い状況にあっても信念を曲げずに生きようとする主人公の姿を描く物語ほど、ヒーローの活躍が痛快に感じられるものはないだろう。
変化を恐れず、自分の人生を選べ
そして物語の後半、エリザベスはテレビの自分の料理番組で、スタジオの観客と視聴者に向けて次のように語る。
「自分を疑いはじめたら」エリザベスは観客に向き直った。「怖くなったら、思い出してください。勇気が変化の根っこになります――そして、わたしたちは変化するように化学的に設計されている。だから明日、目を覚ましたら、誓いを立ててください。これからはもう我慢しない。自分になにができるかできないか、他人に決めさせない。性別や人種や貧富や宗教など、役に立たない区別で分類されるのを許さない。みなさん、自分の才能を眠らせたままにしないでください。自身の将来を設計しましょう。今日、帰宅したら、あなたはなにを変えるのか、自身に問いかけてください。そうしたら、それをはじめましょう」
エリザベスは化学者であり、物質が分子レベルでさまざまな化学反応を起こしていることを知っている。
そして人間もまた、その分子から成り立っている。変化することができるはずである。しかし人は、ときにその変化を選ばない。
『目に見えないものを信じるほうが、自分を信じるより楽』だからであり、「性別や人種や貧富や宗教」といった変化しない属性の中におさまっているほうが、都合がよくて安心だからである。
それでもエリザベスは、「勇気を出せ」「我慢をするな」と訴える。そして「自分で決めろ」と語る。 自分に何ができるか、できないかは、やってみなければわからない。他人に決められる筋合いはない。 今の自分は何を変えられるのか、それを自分自身に問いかけ、行動に移せと強く背中を押してくれるのだ。
まとめ
この作品のドラマ版はApple TV+で視聴可能である。まずドラマ版を鑑賞してから原作を手に取ってみるのもよいだろう。
『化学の授業をはじめます。』 文藝春秋 著)ボニー・ガルマス 訳)鈴木美朋