本を読んで「なるほど!」とすっきり理解できた瞬間は気持ち良い。
しかし、すっきり「わかった」と感じた時こそ、実は理解がそこで止まってしまっているのかもしれない。
わたしは、直感的に少し「わからない部分」が残った読書体験のほうが、読後にそのことを考え続け、「よりわかる」のではないかと思う。
哲学書や、トマス・ピンチョンの小説全般、『コボちゃん』のオチがわからない回(苦笑)などは、その部類かもしれない。
この「わかる」と「よりわかる」の違い、そして読解の深まりを阻害するメカニズムについて、『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』という本が、非常に明確に解き明かしてくれる。

「わかった」と「よりわかった」の明確な区別
本書は、まず読書における「わかった」という状態と「よりわかった」という状態を明確に区別している。
• 「わかった」:文や文章の間に関連がついている状態。
• 「よりわかった」:文や文章の間がより緊密につながっている状態。
つまり、「わかった」というのは、「何が書いてあるのか」が表面上理解できたというだけの状態を指し、その一歩先にあるより深い「読み」とは区別されるのだ。
そして、「わかった」から「よりわかった」へ進む際に、「わかったつもり」という思い込みが邪魔をし、深い理解へ向かうのを難しくすると指摘している。
本書には次のように書かれている。
「読む」という作業に支障をきたすのは「わからない」せいだと一般には考えられている。このことは「わからない」から「わかる」に達する過程では、そのとおりである。しかし、「わかる」から「よりわかる」うえで必要なのは、「わかったつもり」を乗り越えることなのである。「わかったつもり」が、そこから先の探索活動を妨害するからだ。
読解を妨げる「わかったつもり」の正体
この「わかったつもり」が、いかに深い理解への妨げになっているかを伝えるため、本書では様々な例を挙げ、「わかったつもり」になる理由や、そこから脱出する方法を紹介している。
その中で、本書で紹介していて、示唆に富むのが、木下順二の『夕鶴』を使った実験である。
過去に行われたこの物語を使った実験では、つうが主人公のよひょうのもとに来て美しい布を織った理由を被験者に尋ねたところ、「恩返し」と答えてしまう人が6割を超えたという結果が出た。
しかしその後、物語の本文にある「つうの願いはお金でも都でもなく、ただ、よひょうと、二人で楽しく働きながら、いつまでもいつまでもいっしょにくらしていきたい、ということだけだったのです」という箇所を指定して読ませると、「恩返し」を選択する人は大幅に減り、「よひょうと楽しいひとときを過ごすため」と回答を選択する人が増えるという結果になったのだ。
この背景には、被験者の心の中にある誰もが知っている民話『鶴の恩返し』の「スキーマ」が発動されてしまったことによるのではないかと、実験では述べられている。
スキーマとは、過去の体験から得た知識や枠組みを示すものだ。
これが読書において発動されると、無意識のうちに自分の既知の枠に当てはめてしまい、その本の筆者の意図とは違う「わかったつもり」が形成されやすくなるというわけである。
今回紹介したのは本書で述べられている「わかったつもり」のひとつのパターンだが、この他にもわたしたちは様々なパターンの「わかったつもり」に陥っていることがわかる。
そして、本書はその「わかったつもり」から脱出するための具体的な方法も紹介している。
この本を読み、「わかったつもり」から「よりわかった」へ向かうことがいかに難しいか、そしてその壁の正体が明確になったわけだが……。
ひょっとして、このブログを書いている今のわたしも、すでに「この本のことをわかったつもり」になっているだけなのかもしれない――そう考えると、また本を手に取りたくなる。
過去の読書体験を振り返り、「わかったつもり」になってしまっていた事例を考えてみてはどうだろうか。
西林 克彦
『わかったつもり~読解力がつかない本当の原因 』(光文社新書)
![]() |
#読書 #本 #感想
