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自由意思を扱ったSFを読んだらデネットの『自由の余地』を読むと良いよという話

テッド・チャンの作品に『予期される未来』という短編SFがある(同著『息吹』に収録)。この物語は予言機という機械があって、ボタンを押すとLEDのライトが光る。正確に言うと、押す一秒前にライトが光る。つまり、どんなに早くボタンを押そうとしても、ライトの点灯が先行してしまうというもの。なぜそんなことが起きるのか?というとーー信号を過去へと送る回路が搭載されているーーから、要するに決定されている未来からの信号を受けて、ボタンを押す1秒きっかり前にライトが点灯するという道具なのだ。この道具のシステムに逆らおうとして、LEDの点灯前にボタンを押すことにチャレンジしても、すでに未来は決定されおり自分には自由意志が存在しないことがわかってしまう。この予言機に没頭してしまった者は、自発的に選択をすることを拒み、この予言機を使用した3分の1は入院してしまう。この世には自由意志が存在しないことを描いたSFだ。

テッド・チャンに限らずSFを読み解くための文脈に自由意志がテーマの作品がしばしば出てくる。個人的には厄介だ。なんせSFで自由意志をテーマに置かれると、「自由意志は幻想だ」とだいたいやんわり否定してくる。もしくは「あるのかな?ないのかな?」と読者にテーマごと投げつけるからだ(そうしないと物語のテーマにならないことは重々承知だ)。わたしを含めて人類の68.3%(全人口を正規分布にしたときの)は自由意志があって欲しいと、わたしが勝手に思っているので、自由意志の存在を否定されると単純に気持ちが沈む。

例えば、塩ラーメンを食べるつもりでラーメン屋へ入ったが、つけ麺がそこのおすすめメニューだったので「つけ麺をください」とついつい言ったとする。 では、急につけ麺が食べたくなったのはわたしの自由意志だったのだろうか?それとも、塩ラーメンを食べるつもりであっても、ましてやカレーライスを食べるつもりであっても、つけ麺がおすすめのラーメン屋へ入店することはすでに決まっていて、おすすめメニューのつけ麺を食べてしまう必然がすでに決定されていたのだろうか? あたかも選択肢があるように見えて、実はすでに決定されていたのかもしれないと思う瞬間が日常生活にある。まあ、こんなことを思う人はわたしを含めて少数だろうけども。

自由意志があるとか無いとか、哲学的にはどうとか、脳神経学的にはどうとか、一般人には正直言ってどうでもいい。「自由意志は無いよ」と言われてら、いやいや「あるに決まってるでしょ」と答えるのがごく普通に生活されている方々なのだ。 ただし、わたしのような少しひねくれた者のように、前述したつけ麺を食べる瞬間に自由意志のある無しを考える輩は、次のように思いを巡らせてしまう。

さまざまな人生の選択肢のなかで悩み抜いて答えを出す。が、はたしてそれが本当に自分の意志で出した答えなのか?それとも、どんなに悩んで出した答えだとしても、その選んだ結果はすでに決まっていたものなのだろうか?と。 まんまと冒頭に記したテッド・チャンのようなSF作家が投げかけるテーマについて考え込んでしまうのだ。そんなモヤモヤしている頭を整理しようと思いダニエル・デネット著『自由の余地』に手を出してみたわけだ。

同著『自由の余地』を読んでみたところ、わたしの理解力がよろしくないため、正直言って本書を一度ではすべてを理解できなかった。再読してやっと、そのなかの何かに辿り着けるしろものだった。理解できた部分ではダニエル・デネット決定論を肯定しつつ自由意志も肯定するような態度だった。決定論があったとしても、「自分のひじが動かせる範囲は自由意思が幅を利かせてもいいんじゃない?」みたいなスタンスだった。ひじが動かせる範囲て狭くない?と思いそうだが、これは著者の比喩なので、「ガチガチの決定論があったとしてもそれくらいの自由はあるよ」という意味だと思う。 とくに第3章の「コントロールと自己コントロール」ではこのように述べている。

決定論はそれ自体では「コントロールを蝕む」ことはない。〜(中略)〜もっと手の込んだ決定論装置なら、自分自身をコントロールできるばかりか、他の自己コントローラーが自分をコントロールしようとするのを回避することもできる。われわれが決定論的装置だったとしても、そのことをもって、われわれは自分自身と自分の運命をコントロールできないのではないか恐れる必要はない。

このことは、デネット決定論があっても自分の運命はコントロールできないわけではないと論じていると解釈した。それなら、決定論を少し信じてもいいかしら?宇宙にある物理法則だって決まってるんだからその上に身をよせてもいいかしら?などと思うようにもなった。つまり、自由意思がテーマのSFを読んだとしても、気分がすこし沈むことが少なくなるかもしれない。 精神衛生上では気楽にそのような物語を楽しめるようになったと言ってもいい。

ダニエル・デネットのような哲学者の本を読むことは、わたしのように読み慣れないひとにとってはとても難儀なものだった。だけれども自分のカチコチの価値観を崩してくれるので、たまに読むと頭を使った気になり、独りよがりのいい気分になれるのだ。

『自由の余地』ダニエル・C・デネット (著), 戸田山 和久 (翻訳) 名古屋大学出版会